渦巻く知識

自衛隊について

今年令和二年は戦後75周年である。
75年と言えば実に戦争直後の平均寿命を男子で十五年以上、女子でも十年以上超える年数である(内閣府『平均寿命の推移』https://www8.cao.go.jp/kourei/kou-kei/24forum/pdf/tokyo-s3-2.pdf 参照) 今の現役世代(就労可能年齢)は基本的に全員が戦後生まれということになる。それほどの時が経過した。
私も昭和後期生まれであるから、親の世代でも戦争は知らず、私自身に至っては昭和の記憶も曖昧である。戦後の動乱と怒涛の様な経済復興は既に史書の中の一部となり、テレビや映画で見るエンターテインメントの一種となって久しい。
敗戦国として戦争の記憶を風化させてはならないという考えは理解できるが、そもそもない記憶を残すというのは土台無理な話である。
それは結局のところ伝聞でしかない。我々は記憶を持ち合わせていないのだ。

戦後日本にもたらされた変化とはなんだったか。もっとも大きいのは憲法だと私は思う。大日本帝国憲法は改正され日本国憲法が公布・施行された。終戦の詔勅から一年以上の時を費やされて施行されたこの憲法は当時は大いに歓迎されたようだ。名前に『憲』の字を当てるものが流行ったといわれている。

だがこの憲法について、後々の時代に議論を呼んだことがある。
そもそも日本国憲法は連合軍の占領時代に公布されたものであるため、純粋な日本国による憲法ではないと言う意見は今でも聞く。もっともその論はただ彼らの被害者意識が抜け切れていないだけに感じる。たしかに憲法草案は連合国軍から事実上恫喝を用いて呑まされたものであるが、この憲法の中には当然憲法改正の余地が残されていた。それもそのはずである。連合国軍は日本に自由主義的民主主義を浸透させるため『国民主権』の大原則を規定したのだから、当然ここには国民による憲法改正は可能と言う思慮が含まれる。その上での憲法改正だったのだから、これが純粋に日本人によって起草されたものであるかと言う論点はズレていると感じる。何せその憲法を運用してきたのは日本人なのだから。
また、憲法に於いてはのちに設立された警察予備軍(自衛隊)の問題も取り沙汰される。自衛隊は憲法九条に反しており、存在が違憲であるという論である。自衛隊違憲論と呼ばれるこれに反する意見が自衛隊合憲論と呼ばれる。
自衛隊については防衛省は
「憲法九条は交戦権を否定しているが自衛権までも否定しているわけではない。専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきていく」
と述べている
(参考 防衛省ホームページ https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html)
これが謂わゆる政府見解であって自衛隊は合憲であるという根拠になる。
だがそれでも九条に対して違憲であるという見解の下、自衛隊を批判し続けるものがいるのも事実である。

このように日本国憲法には施行後七十有余年を経てなお議論が活発に行われている。
しかしながら日本国憲法は現行憲法の中では世界最長の長さを誇っており、設立時のいざこざはもはや慣習によって否定され、効果が無効であると言った議論は馬鹿馬鹿しい。これほどの長い年月を経て運用されてきた憲法は、かつてあったイタリア憲法の八十年という記録に次いで人類史でも2番目の長さである。それを今更「やっぱり無効」などと言えるわけがない。なので設立時のいざこざは議論の埒外にあると言っていい。

年配の方々は自立後に自衛隊が発足したという者もおり、その違憲性について今もなお論じている場合がある。我々世代にも、彼らに触発されて声を上げる者がいる。
ただ考えて見てほしい。特に我々昭和後期生まれ以降の世代にとって、自衛隊とはなんであったか。我々が生まれたときには既に存在していた組織、そして連綿と受け継がれてきた組織ではないか。この組織が違憲であるという論調が正しいのであれば我々は今まで憲法が遵守されていない時代を生きてきたことになる。果たしてそうであろうか。我々世代は自衛隊を受け入れている。もちろん少数は受け入れていないと述べる者らもいるであろうが、彼らは誰かの言葉に頼っているにすぎない。自衛隊はたしかにこの国に居るのである。
阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、例年の豪雨災害の時も自衛隊はたしかに主権者たる国民の生存権を脅かす自然と戦ってきた。交戦権を認めていない我が国において、我々がその命を奪われ得る敵はもっとも大きいのは自然である。それらとの戦いに於いては前線に立ち続けたのは自衛隊であった。彼らは日本国民の生命尊重の志の体現者であり、生存権の執行者である。
違憲と言うならば我々はあの災害の折にどうするべきであったか。自然災害の前に自身の無力感に打ち拉がれて死に行くだけであったか。その時彼の生存の権利はどこにあるのか。そう考えれば自衛隊が合憲であることはもはや議論の余地はない。

ではなぜ未だに違憲論などと言うものが飛び交うのか。これは偏に戦争の惨禍が我が国の政治によって、軍隊によって起きたという歴史観からくるものである。実際のところ先の大戦では軍部の独走があって戦争に突入して敗北したというのは事実である。無論軍部が独走しなくとも避けられなかった戦争ではあるのかも知れないが、その論は歴史学者らに任せる。
ここで言いたいのは違憲論者たちは常に『今の政府はまた戦争を起こす』という意識の下にいる問題である。交戦権を否定していても軍事的武力とみなされ得る力をもっているのであれば、それは戦争に用いられなくてはならないという彼らの思想が、違憲論をのさばらせているのである。
この時彼らは戦後七十五年という時を見ない。彼らはただ『かつて戦争があった』ことにのみ目を向ける。形而上学的に戦争を見る。だから彼らには戦後の歴史というものが見えない。彼らの眼前にあるのは先の大戦である。
それも自身が経験していない戦争である。それは妄想にすぎない。彼らは自分たちで妄想した出来事をそれこそが真実であると錯覚して現代に対しての言葉に載せているのだ。
無論戦争があったのは事実であって、年配者の中には経験した者もいる。彼らの言葉からそれをどういう風に彼らが見ていたのかは知ることができる。
だが違憲論者はそこから自分たちの解釈だけを抜き取る。そうしてそれが『今まさに行われていること』として錯覚し、戦争反対という荒唐無稽なスローガンの下に自衛隊を否定しているのだ。
自衛隊は戦争のための道具ではないし、そもそも彼らは戦争なんてした事がない。繰り返すが今の日本において戦争を経験した者は決して多くない。彼らはもう老人である。戦後は既に終わっているのだ。
戦後が終わり新しい文化の脈動が始まって久しい。それでも今もなお戦争を理由に現行の社会を否定するのは時代錯誤甚だしい。我々は戦争を知らない。交戦権を否定している日本国憲法の下、多分戦争を知ることはないし、仮に戦争が起きたとしてもそれは自衛隊諸君が戦うだけなのだ。日本には徴兵制もないし当時のような一億総玉砕の気概ももはやない。それは平和ボケではあるが、それが現実である。
戦争反対を叫んでも敵が攻めてくることはある。そのときに我ら国民の生存権を執行させるための公権力は何かと言うとそれこそが自衛隊なのである。
九条の規定が自衛隊にどうこうと言う議論は過去のものだ。日本国憲法は施行されて七十有余年の時を経ており、もはやそれに対しての愚問は時代錯誤であるというのにそれを理解出来ていない人間が未だに憲法論議を唱えるのである。

自称平和主義者の中にはこう言う者もいる。
「仮に他国が侵攻して来たとしても、我々は憲法九条に則り一切の抵抗は行わず、恣にされ全滅し、文化は破壊される。それによって世界史に我々の平和憲法の理想が活かされれば良い」(参考 三島由紀夫:文化防衛論)
これはすなわち日本国憲法の第二十五条に規定する生存権の否定であり、この思想こそ違憲であると私は考える。

今政府与党が(コロナ禍で最近は下火だが)憲法改正を唱えている。憲法九条は自衛権を妨げるものではないという文言を追記し、国防軍として自衛隊に建軍の本義を与えるかの様な書き振りをしている。
だが必要ない。自衛隊はすでに憲法二十五条の体現である。戦前戦中戦後の時代にあった、軍の定義は今の日本にはもうない。その論調が通じたのは昭和四十五年十一月二十五日までであった。あの日を境に日本の戦後は真の意味で終わったのだ。
今や自衛隊の建軍の本義は『他者の生命尊重にその魂を尽くす』ことに変わったのだ。時代の流れを見抜けていない改憲論者も結局は自衛隊違憲論者と同じである。日本国憲法を真の日本国民の憲法たらしめたのは他ならぬ日本国民なのである。それに気づかずに戦前の伝統やら歴史やらを標榜することのなんと愚かしいことか。

すでに自衛隊は違憲ではない。むしろ我々の生命を尊重するための権化なのである。